2007-10-02 Tue
【パパの沈黙、ママのヒステリー。……認められるために、誉められるために、俺は俺じゃない誰になればいいか、ずっと考えてきた。……愛すること、愛されること、愛されぬこと。……】
新幹線の座席に座り、びびりの私は後ろのおっさんが怖くて椅子を倒すこともできず、身体をずり下ろして、斜めにもたれていた。
いきなり、耳の中に入ってきた、知らない男の話し声にドキリとした。
数秒後、ポータブルプレイヤーから流れてきたものだと気付いた時にも、早まった脈は収まりを見せず、何に焦っているのか小さい機械をいじって、本当にこれから流れているのかと曲名を見た。
最近買い、まだ全部聴いていないアルバムの中に入っていた曲と知り、ようやく安心したところで、もう一度最初から聴きなおした。
窓の外には、マンションがいくつも重なっては流れていく。
ここの全てに人がいるって考えたら気持ち悪くなったと言ってたのは、誰だっけ。誰なのかは忘れてるのに、マンション群を見るたびに、その言葉を思い出す。夜だと更に。
礼儀正しく並んだ窓から、何人かの人が見えた。
パソコンに向かって身を乗り出している青年、部屋から出て行く中年男性の背中、テレビを見ながら笑っている若いカップル、テレビがいくつも並んでるみたいで現実味はなかった。でも、やっぱり気持ち悪くなる気持ちは分かる気がする。手にしていた文庫本に目を落とす。
先日、出先でずっと映画が観たいと思っていた『空中庭園』の原作を、衝動的に買って読んでいた。
この時期に、なんでこの本を手にしてしまったのか、気が重くなりながらも、それでも目を背けることはしなかった。
もうすぐ、新幹線の留まる駅に着く。
29時間とちょっと前、私はこの駅で、逃亡することを決めた。
インタビューのため、都心から2時間ばかり離れた駅に向かう途中だった。
どうして少し離れただけなのに、時刻表の「上野」という文字は、上京をイメージさせるんだろう。
そう思った時、自分の行き詰った感情に気付き、逃がしてやらなきゃと感じた。
右肩には、ずっしりとバッグが食い込んでいた。その中には、数人の方の人生が込められた、録音機が入っていた。その方たちにも、付き合ってもらおう。一緒に逃げてみよう。少しでいいから、都心から離れよう。そうも思った。
逃げようと思えば、逃げられるんだってことを、休息を与えられるってことを、自分に分からせたかった。何とかなるものだよ、大丈夫だよって。
逃げようと思ったことは何度もあるけど、本当に逃げたのは、多分これが2度目。
私は、逃げるのが嫌いだ。
逃げたって何にもならないと自分に言い聞かせ、その場で何とかしようともがいて、ガチンコでぶつかっていって、状況を悪化させることも度々ある。
ぶつかっていって、苦しいのに止められなくて、どんどん必死になって、余裕を無くして、最終的に自分が壊れて、関係を失ってしまうことも、あった。
だから、自分を守るためにも、大切な関係を守るためにも、逃げるということも、棚上げすることも、覚えなきゃと最近は思う。
今回も、逃げた先は姉の家。ふらっと、どこかに行くのもいいかと思ったけれど、話を聞いてくれる姉と私を愛してくれる甥たちがいるってことが、私をそこに向かわせたんだと思う。
私が来ることを分かっていたかのように、甥たちは2人立て続けにダウンして保育園は休むことになり、一日一緒に過ごすことができた。
しかも夕方には元気になっていき、元気な姿を見てから帰ることもできた。
駅の階段を上る私の背中に、一番上の子は「またねー!」と何度も車の中から叫んでいた。
二階建ての新幹線、階段の途中まで降りて、小さい窓から外を見る。
ゴールテープみたいに、グレーのホームが滑り込んできた。
私はここから逃げ、ここに帰って来た。
あのホームに一歩踏み出したら、また始めよう。
逃げた始末も含めて、いろいろなアレコレと向き合う覚悟をしよう。
【生きるってのは常に自分の手で 選択をし続ける事……はさむなら口でも何でもご自由に……そんなものに 揺らいだりはしない】
また別の曲が耳の中で、語りかけてくる。
私は生きていく。選択し、その結果を引き受ける。そうして、生きていくと決めたんだ。
揺らいだりは……するけどね。
ギリっと歯が鳴った。力を弛めると、顎がふるふるとして視界がぼやけ、慌ててもう一度ギリっと鳴らす。
小学校の朝会で、校長が「あくびは噛み殺せ、殺していいのはあくびだけだ」なんて、うまいこと思いついたって得意げな顔で言ってたっけ。涙も噛み殺していいのかな。
もう少しであの扉が開く。ちょっとだけ背を丸めて、私はあのホームに足を下ろそう。
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