| | 大阪で、17歳の少年が母校の教師を殺傷した。この事件について語ることを先延ばしにしてきたのは、事件を知ってふりこが乱れて揺れた自分に、「お前は部外者だ、他人だ」と言い聞かせる時間が必要だったからだった。 事件の後、いつものように私はすぐにネットでいろいろと情報収集を始めた。次の日の朝刊を待たなくても、そこには多くの情報が次々と流れてくる。けれど……。殺された教師を私は知らない。殺された教師の人生を私は知らない。殺された教師の遺族を私は知らない。殺された教師を大切に想ってきた人々と、私は違う。いつか、私が当事者になるかもしれない。けれど今は、部外者だ。そのことを分かっておかなければ、私は無意識に、大きな声で傲慢な御託を並べてしまいそうな気がした。加害にしても、被害にしても、それを背負えるのは当事者だけ。私は、外から眺めている、私でしかない。「お前は部外者だ、他人だ。そして、お前はお前だ。静まれ」そう自分に言い聞かせた。 それでも書く以上は、やはり部外者の御託でしかない。それでも、書きたい。
半年ほど前、仕事を辞めた直後に私はいろいろと思考を始めた。働いていた時には、「無駄」な思考を極力排除してきた。そこから解放されると次々と考えたいことが浮かんで、友達を捕まえては「どう思う?」と質問攻めにした。その1つに、抑制力があった。 子どもだって大人だって、生きていれば殺意をもつことくらいある。少なくとも私は、数え上げればキリがない。そしてそれは、人を殺すという重さからは程遠いほど、容易に抱くことができる。でも、多くの場合実行されないのは、「家族に迷惑をかける」とか「殺人者にはなりたくない」とか「相手が可哀想だ」とか、そういう抑制力になる理由をもっているからだと思う。ただ、列挙していて気付いたのは、どれもとてもはかない理由で、簡単に壊すことができるような気がしたことだった。 今回の事件で、警察もマスコミも必死で「動機」を知ろうとしている。動機は何のために必要なんだろう。彼は罪を認めている。確証も取れてる。それでも「動機」ばかりを追う彼らを傍観しながら、切なさに似た感情を抱いた。罪を軽くするために、彼自身が動機を探すならまだ分かる。でも他人が動機を知ろうとするのは、納得のいく答が見付からないと気持ち悪いからじゃないだろうか。私自身も「なるほど、そりゃ人も殺しちゃうよね」と言えるような動機があれば、スッキリするかもしれない。でも、報道番組のリポートによって動機を知ることのみで、人を殺すことを納得できたら、その方が気持ち悪い。だからみんなスッキリできなくて、引きこもりだのゲームだのネットだのって、これでもかってくらいに理由を探してるのかもしれない。 私がこう言うのは、彼に理由はなかったんじゃないかと感じるから。もっと正確に言うなら、「コレです」と言葉にできる、明確で直接的な理由がないということ。そしてそれは、殺す理由がなかったということでありながら、殺さない理由がなかったということと同意のような気がしている。殺さない理由、つまりは上記した抑制力、それが彼にはなかったんじゃないだろうか。抑制力は、現実がリアルに感じられていなければ、見えてはこない。リアルに感じないというのは、ゲームやネットばかりをしているリセット世代だから、などという安易な理由からくるものではなく、もっともっと深いもののような気がする。だって、彼はあの教師を刺した時、確かに感じたはずだから。人間にとって異物である包丁から、肉を切り裂いて侵入する感覚が伝わってきたはずだから。ゲームとは違うって分かったはずだから。それでも、刺すことを止めなかったのだから。
先月の終わりに友人の家にお邪魔した時、私が香田証生さんの動画について考えたことを話していたら、彼女はお茶を入れながら「加害でも被害でも、恐怖しなくなるっていうのは、怖いことだよね」と話した。人にナイフを突き刺すことに、ためらわない。人にナイフを向けられた時に、無表情でいる。私にはどちらも、生きることに執着のない、生きることを放棄した、生きることを諦めている、もしくはすでに魂が死んでいる、そういう人間に見える。 記憶が蘇って数年が経った頃から、私は時々、そういう幼少の頃の私をちらちらと見ている。一瞬の欠片しか見られないのは、それを見ることを私が恐れているからで、覚悟を決めて見ようとすると、彼女は逃げてしまう。私は確かに、恐怖しない瞬間があったのだと思う。何かスイッチのようなものが入る感覚を、一瞬だけ感じる。私には人を殺すような機会はなかった。でも、多くの人を、何のためらいもなく傷付けた。そして、殴られても何とも思わないことが少なくなかった。その私は、私の感覚や感情は、一瞬でも感じるたびに、人間ではない怪物か妖怪かのように思える。だから怖くて、直視できない。でも、紛れもなく、人間の姿。私の姿、なんだ。 彼は、いや、彼も、恐怖していなかったように思う。恐怖していたら、ためらっていたら、大人の心臓を一突きになど、できないのではないだろうか。彼は、あの教師の命を奪った。これから先の人生を奪った。遺族から、大切な人である教師を奪った。それはとても大きなことで。彼がこれから先ずっと背負っていくことで。……彼は今、恐怖しているだろうか。恐怖は、取り戻せる。私がそうであるように、遡って恐怖することもできる。彼はいつか、今回の事件を起こしたことを、人を刺して殺したことを、恐怖するだろうか。 抑制力の基底にあるのは、恐怖するってことかもしれない。抑制力になる理由が見えないっていうのは、恐怖するってことを見失っているからかもしれない。恐怖するっていうのが度々起こると、身体的にも精神的にもきつくなる。恐怖しないと、その場しのぎだけれど、とても楽になる。自分が、強くなったかのように感じる。恐怖しないっていうのは、前に書いた「平気になる」と似ているような気がする。そんなに強くならなくても、生きていける場所があるといい。自分が傷付くことに鈍感にならず、恐怖して可愛がる。誰かを傷付けて哀しませることを、恐怖して哀しむ。そして、飯食って、寝て、笑って、気が向いたら、遊んだり、勉強や仕事もして、そうやって無理をしないで自分を生きてりゃ、それでいいんだと思う。それでいいんだけど、それが何だか難しくなっているのかもしれない。 |
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